なぐりがきノート

保育士。昨日より今日は素晴らしい。

2016年の手帳。

来年の手帳を買いました。
https://instagram.com/p/72p_q3wrZb/
2016年の手帳#ほぼ日手帳 #ほぼ日手帳カズンavec
ほぼ日手帳をかれこれ10年ぐらい愛用してますが、初めてのカズンです。しかもavec(分冊版)です。

カバーは買いませんでした。見ての通り、そのままに透明のブックカバーをつけて使おうか思っています。
ほぼ日手帳のカバーは確かに色々収納できて便利なんですけど、本体よりだいぶ大きめに作られているせいで、文庫本のように親指でパラパラめくれないんです。個人的には手帳も本も親指でパラパラめくる感じが好きなので、今使っているほぼ日手帳オリジナルも専用のカバーは着けずに文庫本用のブックカバーを着けてます。
https://instagram.com/p/72trZYQrRU/
ちなみに2015年はほぼ日手帳オリジナル#ほぼ日手帳 #カバーは普通のブックカバー

カズンは重い(分冊じゃないと0.5キロ近くある)ので遠慮してたのですが、去年からavecが登場して、これだ!と思っていたのですが、今年はあまりの人気に買いそびれてしまって。来年こそはということで購入しました。

書くスペースがたくさんあるというのはいいですね。自分のように字がきたない者にとっとも大きく字が書けるのはありがたいです。
これで自分で書いたのに読み返せないということが少なくなりそうです。

使い方は来年までゆっくり考えてみようと思ってます。

早く2015年終わって欲しい。いろんな意味で。。。

保育の仕事について思うこと。

“いつでも子どもを真ん中に考えて保育の仕事をしていきたい”

些細な事務仕事にしても、掃除にしても、
後輩の指導にしても、職員同士のくだらない雑談にしても。
必ず最終的には子どもの幸せや成長・発達に影響していく。
それが保育の仕事だと思うんです。

だからこそ、意識的に子どもを真ん中に考えて働くことが大事なんだと思います。その意識があるかどうかで、仕事への意識が変わっていくし、どんなことにもやりがいが生まれる気がします。でもそう言いつつも、

“なんでここまでして子どもの為にしなきゃいけないんだろう”

そう思うことももちろんあります。楽しいことばかりじゃないです。むしろしんどいことの方が多いくらいです。
それでも自分に向けられた子どもの笑顔を見たり、昨日までできなかったことができるようになった子どもを見たりすると、純粋にに今までやってきて良かったなと幸福な気持ちになります。

そう思うと、また子どもを真ん中に考えて仕事をしたいと思えるんで。保育の仕事なんてその繰り返しです。

保育って不思議な仕事です。
そして、つきつめればつきつめるほどやりがいのある仕事だとも思います。

人それぞれの人生。人と人との縁。

職場の先輩や上司だからだって、他人の人生にあれこれ口出しするのは違うと思う。

例えば職場を辞めたいという人がいたとして、その人の事情を聞いたり、こちら側の思いを伝えたり必要はあるのは分かるけど、それをした上で
無理に説得して引き止めようとしたり、本人の気が変わるように同僚にコテ入れさせたりと、職場の言い分を押し付けるようとするのはやっぱりおかしいと思う。

同じ職場で働くというのは同じバスに乗り合わせたようなもの。
終着駅まで一緒に共にする人もいるだろうし、途中で降りる人もいるのはあたり前だと思う。

もちろん、職場というのはバスみたいに簡単なものじゃないのも分かる。職場はバスのように移動手段としてその空間にいるわけではなくて、職場とうい同じ空間で、互いに何をするかが問われる場所だから。人件費とか企業運営とか、雇う側の理由も色々あるのだろう。確かにそこは雇われている自分には知る得ない事情があるのかもしれない。

それでも、人の人生には口出しはしてはいけないし、できないと思う。

そして、言葉を交わし、心を通わせた関係であったなら、例え途中で降りたからといって、目の敵のようにして、一方的に終わらせてしまうのも違うと思う。
人との縁は、人と人を繋ぐものであって、職場と人を繋いでいるわけではないのだから。
その為にも、降りようとする人の思いを尊重すべきだと思う。
https://instagram.com/p/0e3DLDwrQR/

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

無くしてしまうことが怖いのかもしれない。

最後の一口を残す癖がある。

美味しい物は尚更。
今もテーブルの上にあるグラスには一口分の赤ワインが残っている。
その一口を飲んでしまうと終わりになってしまう。
そう考えるとなんだか寂しくてつい残してしまう。

形がある物はいつか無くなってしまう。

そんなことは分かっているのだけれど。
分かっているからこそ、自分の手で無くしてしまうことに引け目を感じてしまう。

グラスに残る最後の一口。
こんな些細な物にこんなことを考えるのは馬鹿らしいのも分かっているけれど。
飲まずに寝てしまうのもアリかなとも思う自分もいる。

疑うべきもの。

疑うべきなのは自分自身の視点や思考だと思う。

ありのままを見ているつもりでも、
それは自分に都合のいい世界であることがほとんどで、
そのせいで誰かを傷つけていることは多いんじゃないかな。

私は誰のえこひいきをしてません。

そんなことを真顔で公言している人は
個人的にはあんまり信用できない。
そういう人こそ自分自信をしっかりえこひいきしてるような気がするから。

自分について。結論のない話。

自分ってなんなのか

そんなことを考えることが最近多いのです。

自分ってなんなんですかね?

自分には色々な役割が合って、
色々な顔があるんです。

はてどれが本当なのか?

そんな質問は意味がなくて、
バカバカしいのも分かるんですけどね。
つい考えてしまうんです。

もう少し理論的にこれらの問について考えればいいんですけどね。
そういうのが苦手なんですよね。
すぐに面倒くさくなるんです。

そもそも自分がなんなのかなんて、一般的な答えなんてないんでしょうよ。
だから自分で好きに決めればそれまでなんです。きっと。

ファミレスで沢山のメニューの中から自分が食べる物を決めるみたいに。
あれこれ考えずにこれだって決めちゃえばいいんだと思うんです。

間違ってるかどうかなんて決めてみないとわからないし。

いやいや、そもそも自分について自分で決めること自体がナンセンスな気もするんです。

色々な役割があって、色々な顔がある。
その時々にいる周囲の人間が自分を決定づけているというのはあると思うんです。

養老孟司さんの本を読んだり、
初期仏教の本を読んだり、
平野啓一郎さんの本(分人についての本)を読んだり、

そういうのが余計に悩ませているような気がします。

もうなんだかよく分からないです。


あぁ、自分ってなんなんだろ。


タイトル通り結論がない話ですみません。

別に誰に読んでもらいたいとかはないんですけど。

久しぶりに外に向かって何かを書きたいと思ったんです。
外に向かってといっても何かを本気で伝えたとかそういうのじゃないのだけれど。

最近は自分の中で言葉や感情や変なイメージがぐるぐる回っていて、なかなか出口を見い出せませんでした。
不安定なんだ自分の中だけで自己完結をしていて、外に発信したら自分全体が崩れてしまいそうだったんです。

何がきっかけでブログでも書いてみようかなと思ったかなんですけど、それはたぶん睡眠時間が十分に確保できたことと、仕事が一段落ついて連休に入れたことが大きな理由だと思います。
自分は意外と単純で、生活リズムが整うと心の中も整うようです。その事実は30近くになってようやく分かったんです。遅いですよね。気づくの。

このブログは10分で書き上げようとはじめから決めているんです。ただいま6分経過しました。

あと4分。

何を書こうか。
最近傘を買いました。雨の日に傘を電車に忘れて。買うしかなかったんです。
悔しいから2,000円の傘を買いました。ビニール傘で全然オッケーな自分にとっては高額商品です。
使うのが楽しみなんですけど、傘を買って店を出た途端に雨は止むし、ここ数日太陽が顔を見せてえくれています。そんなものですよね。人生って。
一度も開くことなくどこかに忘れてしまわないようにだけはしたいです。

時間もなくなってきましたので、今日はこのへんで。

大変に変な文章ですみません。